私は受け身で報道に触れることがまったくない。必要性を感じて自分から情報を入手しようと考えない限り、情報媒体に接触しないようにしている。なぜそうしているかというと、私たち神裔にとっては許しがたいことばかりが世の中では起きているからだ。昨今の報道にはこれから流れる放送内容について、事前にその醜悪さを注意書きとして表示する必要があるほどの内容ばかりが垂れ流されている。
水はいい言葉をかけるといい結晶構造になり、悪い言葉では悪い結晶構造になる。人体の大半は水なのだから、悪い情報を受ければ当然傷む。自分の力ではどうにもできない悪い情報はできるだけ遠ざけて自分を守ることは健康管理の一環でもある。嫌なことがあると遺伝子が傷つき、それが病、老化、不運、気の穢れなどにつながる。悪い情報というのはウイルスの一種とも言えて、質の悪い感染症のようなものでもある。
一般大衆の価値観からどんどん報道機関の主張が乖離していっているため、善良な神裔にとって毒となっている。「悲観主義は気分だが、楽観主義は意思である」という言葉があり、私も気の持ちようの参考にしてはいるが、意思により楽観主義を保つというのは口で言うよりずっと難しいことだ。だから悪しき情報に触れない仕組みを作り、それを実践することによって気に入らない情報を得てしまわないようにしている。強いて言えばその仕組みを貫く意思こそが楽観主義を担保する意思になるだろう。
具体的には報道番組や電子媒体の記事を目に触れないようにし、自分が知りたいと思ったときのみ自分の意思で本を読んだり検索したりして調べるようにしている。テレビやインターネットの報道では余計な報道内容も目に入ってしまうので必要最小限の情報を取り入れるのに適していない。求めていない報道記事が目に入りやすい作りになっているような媒体は敬遠するのが得策だろう。
そもそも社会人であれば報道に注意を向けておくべきだという思い込み自体が強迫観念に過ぎない。報道に触れている時間には給料など発生しない。しかも生業に役立つ本当に自分の領分として知る必要がある情報は極めて限られている。専門以外の社会一般の事柄、つまり知る必要がなく重要でもない情報は短期的には騒がれても時とともに淘汰される。そして知る必要があり重要な情報だけが残る。そういう情報は意図して得ようとしなくても自然とどこかで知ることになるものだ。毎日情報収集するのはあまりに非効率なのだ。
しかし人は情報を求める性質のある生き物でもある。それならば自分が気になることを一覧表にでもまとめておき、気が向いたときに定期的に検索するようにしたり、急遽知る必要ができたことのみその都度検索して知るようにするといい。自分の思考を形作る情報の中で、自分の意思で取りに行った情報の割合を高めるように意識すると、世の中の同じような情報ばかりを与えられている量産型人間とは一味違った、独創性の高い思考ができる人になれる。入力が他と違うからこそ出力でも人と違うものができるのだ。
それでも報道に日々触れていないと不安だという人は、試しに重要な予定や楽しみな予定を万全の精神状態で迎えるためと考えて、その予定が終了するまで完全に情報を絶ってみるといい。しばらく情報を絶っていても何の影響もなく、むしろ快適さすら感じると実感できるだろう。いわば情報断食。目的や期限のある情報断食は初心者にも取り組みやすく、その第一歩として有効だ。世の中で起きていることのほとんどはあなたの人生に何の関係もない、少なくとも自身の心身を害してまで見聞きする価値などない些細な影響しかないものだと理解できるだろう。
情報に敏感でないと見逃してしまう有益なこともあるが、そういう情報は見逃しても仕方ないと割り切って追わないようにするのが妥当だ。自分を幸せにする情報に敏感であるということは、自分を不幸にする情報にも敏感ということでもある。しかも世の中に広がる情報は圧倒的に悪い情報が多く、おまけに個人の力では知ってもどうしようもないことばかりだから知らないほうがいい。アドラー心理学では課題の分離という悩みへの対処法をする。自分の力でどうにかできる課題にのみ労力を集中し、自分の力が及ばない範囲の課題については気にしないようにするという手法だ。これは人間関係だけでなく社会との向き合い方にも応用できる。自分の力でどうにもならない不幸については気にしないようにすべきだ。そして気にせずやり過ごすことが難しいのならば最初から知らなければいいのだ。
多くの人が気に病むことを知らずにやり過ごせたら、世の中の他の人々と比べて相対的に心身が健康な状態でいられるということだから有利になる。求めてもいない内容を吹き込まれれば、食べたくもない不味い物を無理矢理食べさせられているようなものなのだから疲弊してしまって当然だ。記憶力も感受性も豊かな、有能な人ほど悪しき情報には近づかないよう気を付けないといけない。食事も情報も何を食べるか、どのくらい食べるのか、どこで食べるのかは自分が主体的に判断し、心身を労わる必要があるのだ。
報道によって心配や怒りを抱くことは有害だが、貴重な時間を使って見ておきながら無関心でいたり他人事だと捉えるて気に留めない人もいる。しかしそれは人生の限られた貴重な時間を浪費していることにほかならず、直ちに中止すべき悪習だ。無駄な情報収集の習慣を改めれば、あなたの人生には莫大な余剰時間が誕生することだろう。ちなみにそうして誕生した時間で何かに集中して取り組むときは、携帯電話を機内モードにすると精神と時の部屋にいるように時間の密度を高められる。情報だけでなく物理的に外部と遮断すると、自分の時間が深まるのだ。本当に知るべき価値のある情報は自分の中にこそあるのだ。
報道に対する無関心は為政者の暴走を招くという意見もある。これについては一理あるが、そもそもあなた一人が報道に触れるのをやめても世の中の大部分の人はやめないだろうから要らぬ心配だと答える。また、選挙など必要かつ有効な行動さえきちんとこなせていれば報道に毎日のように囚われる必要などないから安心していい。投票などなすべきことをきちんとこなすことは、自分は報道は自衛のために拒否しているが社会を諦めて白紙の委任状を渡しているわけではないという自分自身への意思の表明になり、精神の安定につながる。
実際の世界は広いが、個人の認識できる世界は狭い。通信技術の発達は不必要に世界をつなげてしまい、人間の特性からかけ離れた情報収集の習慣を提示してしまった。自分と無関係な遠くの他人や、自分と考えの合わない他人を極力無視して、考えの合う快適な人だけで自分の世界を構築することができる。その人たちとの情報のやりとりだけで人は幸せに生きられる。そうして集団として団結して集団を強く大きくすれば、個人としての存在もそれに比例して強大になり自分でどうにかできる不幸も増えてくる。そうなったら少しだけ悪い情報も気にしてみてもいいだろう。ということは私たち神裔の団結が世の中を救う力になるということだ。あなたは個人で不幸な情報にさらされる必要などない。大いなる神裔の一員として悪い情報を無視していい。そしてどうしても無視できない悪いことには集団の力で解決していけばいい。あなたは一人ではないのだから。個人の力でどうにもできない不幸については最初から知らないほうが幸せだという事実は、逆に言えば集団の力でどうにかできる事柄を増やすことで解決できる不幸が増えるということでもある。偉大なる神裔人種には、それをなす使命があり、あなたもまたその欠かせない一員なのだ。
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