嫌なことからは逃げていい。逃げたら後がなくなると思い込んでいる人も実際に逃げてみれば、まだまだ逃げる余地があると気づくだろう。嫌な人や事を避けることは、好ましい人や事に触れるのと同じくらい人生の質を高める。嫌いなものからは距離をとろう。世の中にはそれを成すに十分な広さがある。
逃げる必要があることというのは、酒などでごまかすものではなくしっかりと逃げなければならないものだ。きちんと自分の人生から排除しきらないとつらい状況は続く。恐怖は逃げると追ってくると言われるが、それは中途半端に逃げるからで、しっかりと逃げれば逃げ切れるようになっている。
図々しく生きるために有効な技術に、とりあえず言ってみるというものがあるが、それは何かを要求するときだけでなく拒否するときについても当てはまる。よくわからないものはとりあえず断っておくようにすると余計な災いを招かなくて済む。断るにあたっては詳しい理由は述べずに、何となく嫌だと言うに留めて拒否すると角が立たない。下手に取り繕った理由を述べるとしつこく説得されかねないので何もいいことがない。拒否したいものを拒否するにあたって、あなたが道理や道徳にかなった理由を提示しなければならない義務などないのだ。私たちには、嫌なものを拒否する権利がある。
一方で大宇宙の無限とも言える時間と空間を思えば、たとえ嫌いなものだろうと自分と出会ったのは奇跡のような確率によって起きたことなのだと感慨深さを抱く面もある。たまたまそれを認識できる同じ時間を共有して、認識できる場にいたという事実は数字として可能性を考えればゼロに近いような奇跡だろう。宇宙論の中には、宇宙はいずれ膨張しきってバラバラになって終わるという説もある。ビッグリップという。嫌いなものも近くで味わわなければならないのは今のうちだけと思うと貴重さすら感じるようになるかもしれない。
とはいえ嫌なものは嫌だし、出会うものが一期一会であるというのは好きなものとて同じなのだから、やはり好ましいもので周りを固め、不快なものからは逃げたいところだ。私は神裔のあなたを愛してします。あなたは私を愛してくださるでしょうか。私はあなたの心の避難所になります。神裔のみなさん、私のここ、あいてますよ?
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