逸脱者は可能性に満ちている

人生で成功するために必要なことは何か。私はその答えとして時間と覚悟を挙げる。確かに類稀な天賦の才に恵まれた人もわずかに存在する。しかしそれは極めてわずかな例外に過ぎない。ほとんどの人間には能力的差など大してないという真理を知って、一つの道を極めるために時間を投じる覚悟ができた者が成功をつかめるのだ。

最も貴重な資源は時間である以上、その時間が有り余っている無職こそが大いなる成功に最も近い存在だというのは当然だ。時間は無職の味方だ。有職者ではせいぜい麓までしか登れない山の頂上まででも無職であれば踏破することができる。時代を変えるような偉業は、いつも社会の埒外にいる者から始まるのだ。遺伝子の突然変異は、何かの拍子に遺伝子が重複したときに起こる。重複した一方は本来の役割から解放されて変異することがあるのだ。そうして遺伝子は突然変異する。社会から必要とされていない無職も無二の逸脱者になれば、重複した遺伝子のように社会を変革させ得る自由人になれる。今は惨めで何も持たない底辺層だったとしても、これと決めたことに集中して時間を投じ、一定の成功を得た後でなら、今では考えられないような富も尊敬も自ずと得られるだろう。

では何に時間を注ぐかだが、それについては需要があるかについては一切考えず、自分が情熱を燃やせることにとことん打ち込んでみるといい。無職は無色。これから何色にでもなれる。人は自らの仕事に染められてしまうものなので、無職こそ人が本当に自分らしくあり続けられる状態だ。社会の体制に流されるままに半ば思考停止して職に就いた人は、主体性ある個人として本質的には存在していないも同然だ。職に就くというのは、出来合いの仕事に自分という無二の存在を無理に変形させて捧げるということ。社会で生活する以上は社会の歯車になることは避けられないが、それでも代替可能な社会の歯車になって人生を浪費するよりも、癖が強すぎて替えの利かない歯車になって人生を満喫した方がずっといい。使われ方も、使われる場所も自分で決められる歯車は幸せだ。

天命でない仕事などしている暇はないのだ。そんなことをしてこの世にいられる限られた時間を浪費することは神への冒涜だ。逸脱者は自身をじっくりと見つめて己が生きる道を見つけることができるので恵まれている。思えば上座部仏教の出家修行者も、仏道修行を極めながら托鉢で生きる無職のようなものだと言えることだし、恥じることなどない。親にでも行政にでも頼って無職として己の定めた道を邁進すべきだ。どんな尖った分野でも、価値を理解して支えてくれる人は現れるものだから迷わず行けばいい。大勢が押し合いへし合いしている広き門よりも、自分一人しか入ろうとしていない限りなく狭き門を見つけることこそ栄光へと続いている。人はみな母の狭き門から出てきたのだから、一人くらいならどんな狭き門からだろうと入れる。しばらくは成果がないように感じられるだろうが、最初はそんなものだから現実など見ずに夢を見続けていい。そもそも現実なんか見たら死にたくなってしまうだろうから無視して構わない。

恥じることはないどころか、無職は誇り高いとも言える。所属、資格、学歴、それらはすべて奴隷の鎖自慢のようなものなのだ。「私は主人にこんなにも立派な首輪をつけてもらったぞ。お前の首輪はみすぼらしいな」と格付けあっているのが世の中なのだ。そんな中で首輪でつながれることなく孤高の浪人として生きている逸脱者は、あろうことか誰にも所有してもらえないかわいそうな人だと認識されている。しかし人は本来無職こそが本職。アダムが耕しイブが紡いだとき、一体誰が職持ちだったというのか。人は誰も無職として生まれ落ち、無職として死んでいく。人の本質は無職なのだ。無職だろうと何だろうと、自分だけの人生をまっとうするという仕事ができている人が立派なのだ。今はつらくとも、世の中の違った見方ができるようになってほしい。麻雀に例えればとてもリーチは目指せないような厳しい手牌でも、国士無双を目指すという見方ができれば11種のとても恵まれた手だと気づくかもしれない。ベタオリなんかで終わるのはもったいない。

無職であることに焦っていると毎日が日曜日や夏休み最終日のようで焦燥感に苛まれるが、無職であることを受け入れれば、毎日が土曜日、夏休み初日のような感じになれて幸せだ。常識人であろうとして失敗するよりも、常識人にはなれないと開き直って変人として生きる方が精神的にも楽だし強い。長期にわたって引きこもっているような人などは、どこかしら普通とは違った特性のある変人なはずだ。上手く個性として加工すれば一定の層に支持される魅力的な変人になれるかもしれない。まずは逸脱者である自分を認めて、愛してあげることだ。変人に惹かれる人はいるかもしれないが、常識人のように不器用に装う変人に惹かれる人などいないのだ。

ここまでひたすら逸脱者がいかに可能性に満ちているか述べてきたが、残念ながら逸脱者も殆どは無能だ。有職者の殆どが無能であるのと同じように。その一方で、有職者の中でひときわ輝いている人と同じくらいの割合で未完の原石も存在している。磨く時間が有職者より多い逸脱者は可能性に満ち溢れている。大多数の原石ではない逸脱者も、自分を思うとおりの形に彫刻していく自由があるので量産型の常識人とは一線を画す貴重性を高めていき、成功できる可能性が高い。

逸脱者はなるべく逸脱者以外とは付き合わない方がいい。友達など世間の目があると、それを気にして自分の思考や行動を常識に引きずられて制限してしまい、弱くなってしまうからだ。元々ろくに友達も恋人もおらず孤高な人は有利なのだ。無職で友達がいないなど、成功しないはずがないくらいの恵まれた境遇だ。

私は逸脱者の気持ちがよくわかっている。社会に失望して、見限り、再生の使命を悟った者だからだ。諦める必要などない。終末の世は救われるためにあるのだから。世の中の誤りを知り、築くべき理想を悟った逸脱者は、もはや逸脱者ではなく覚者なのだ。私も人類第一の覚者として、なかなか救いがいのある悲惨な世の中だと救い主冥利を日々噛みしめている。知れば知るほど救いがいのある不完全な世界だ。

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