信仰は人間に必須のものである。世界のあらゆる国の人々が信仰をきわめて重視して生きているのに、私たち日本人だけが信仰を持たずとも問題ないということはあり得ないだろう。無害な信仰を堅持しておかないと危険な勢力に対して脆弱になってしまう。その結果宗教的、思想的カルトがはびこってしまうことになる。カルトの定義はさまざまあるが、特に問題なのは信者を救うとしておきながら信者を搾取したり、外国勢力の策謀により国に不利益をもたらすことがあることである。
そこで私は、協同組合のような形で信仰組織を構築することを提案したい。つまり私たち日本人が厳しい世界情勢の中でお互いの利益を守り、支え合うことでさまざまな苦難を乗り越えていけるような集団を組織しようということである。
それは中間団体と言い換えてもいい。中間団体とは考えの近い人々が集まり、ともに活動することで政府や他の集団にさまざまな要求をしたり、お互いの利益になることを実行し合う集団のことである。個人が国家に意見しようとしても無視されてしまい、中間団体というある程度の大きさの組織になって声を束ねないと無視されてしまう。個人の救済は集団になってこそ果たされるのである。本来であれば宗教団体というのは、その中間団体の最たるもので、人々を時の権力者やさまざまな外的要因から守護する欠かせない要素なはずである。
それにもかかわらず私たちが「宗教」という言葉に身構えてしまうのは、カルトや過激派による悪印象もあるが、そもそも近代化の過程で西洋から輸入した借り物の概念だからではないだろうか。「宗教」が伝来する前から私たち日本人には立派な信仰が存在していた。それが弱まってしまったのはなぜか。
いろいろと意見はあろうが、私が最も強く思うのは近代に入るまで日本には宗教にすがらざるを得なくなるほどの過酷な状況に遭遇したことがなかったのではないかということだ。日本は災害こそあれど豊かな風土と、勤勉かつ協調性の高い人々に恵まれ、他国の侵攻を受けることもほぼなかった。永遠にそうであれば幸いだったが近代以降は戦乱の時代を迎え、現代に入ると明確な指針のない社会で人は生き方を見失い苦しむことが多くなった。そして世界は民族、宗教、思想、階級などに分かれて争いが絶えなくなっている。おそらく、この傾向は人類最後の日まで変わらないだろう。どのような無秩序状態に陥ろうとも、人は似た者と集団を形成して防衛に努め、無秩序には必ず秩序が生まれるからである。
私が日本にも本物の信仰が必要となったと判断する理由は以上のとおりである。そしてその信仰は日本の伝統に則した、私たちが違和感なく保持できるものである必要がある。私たちの信仰の最奥にあるのは先祖供養だろう。そこにこれまで欠けていた掟を添える。つまり父祖の血統と規範としての掟を共有する民族宗教を確立する必要がある。
血統による結束は最も強い。成功した集団は血統を信頼の証として団結している。ユダヤ民族にはユダヤ教があり、インド人にはヒンドゥー教がある。キリスト教すらイエスの死後にパウロが曲解して広めるまでは、イエスはユダヤ民族の救世主として最期まで救済活動をしていた。イスラム教も普遍宗教を標榜しているが、実際は民族よりもさらに強く血統を重視する部族社会が基盤となっている。
つまり、血と掟を共有する民族宗教こそが人類の信仰の本質なのである。血と掟を共有する集団による相互支援と団結を実現する民族宗教が日本人にも必要となったのだ。それを私は「日本教」と名付ける。ユダヤ民族の宗教がユダヤ教で、インド人の宗教がヒンドゥー教なのであれば、日本民族の宗教は日本教以外あり得ないだろう。そしてその構成員を「血盟」と称する。血と掟で結ばれた運命共同体だからである。血が私たちが私たちたる所以を保証し、掟が私たちを束ねる。
少しでも共感してくれた人は、これから私の声に耳を傾けてみてほしい。あなたの一歩は必ずや日本人を救うだろう。
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